2012年6月14日 ジェンダー平等

南京でみた歴史の事実日本軍「慰安婦」の苦しみ今も

中華全国婦女連合会との定期交流

福島の民芸品“赤べこ”を、孟暁駟(もうぎょうし)副主席に贈る

福島の民芸品“赤べこ”を、孟暁駟(もうぎょうし)副主席に贈る


 
中華全国婦女連合会の招きで、新日本婦人の会の代表団が、5月14~17日に北京、南京両市を訪問しました。南京市では日本軍「慰安婦」問題の解決が待ったなしとなるなか、南京大虐殺記念館を訪れました。(長谷川記)
訪中代表団
団長・笠井喜美代会長
団員・平野恵美子国際部長、長谷川あまり中央常任委員

城壁に囲まれた美しい古都

銅版路に建つ倪さんの像の説明を受ける笠井会長ら

銅版路に建つ倪さんの像の説明を受ける笠井会長ら


紅蘇省の首都・南京市(人口355万人)は、紫金山を背に、揚子江がゆったりと流れる美しい古都。宋・明など10の王朝が都をおき、近代では中華民国の臨時政府の首都にもなりました。
5月16日、私たちは南京大虐殺記念館(侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館)を訪ねました。中華婦女連の楊晹アジア処副処長と紅蘇省婦女連の邵朝建弁公室主任が同行しました。
記念館は、日中戦争当時、中国兵や市民が虐殺・埋葬された“万人坑”の跡地に建てられ、拡張工事の中で新たに19の遺体が発掘され(2007年)、そのまま保存・展示されていました。
門を入ると、「城壁」「軍力」の残骸や被害者の「顔」「腕」などの大きなモニュメントが置かれた広場が。ホールへと向かう道は「生き証人たちの銅版路」、生存者222人(02年作成当時)の足型が並んでいます。

歴史の証があちこちに

高さ10メートルの女性像。腕には死に逝く幼子が

記念館入り口には、放心したように空を見上げる高さ10メートルの女性像。腕には死に逝く幼子が


「銅版路」に建つ彫像は、事件を語りつぐ活動をしてきた倪翠萍(げいすいひょう)さんと彭玉珍(ほうぎょくちん)さんです。倪さんは、1937年12月、3人の日本兵に父母を銃殺され、自身(当時11歳)も左肩に一発を受けました。自分で弾を取り出し一命をとりとめたものの、生涯、後遺症が残り、昨年10月、83歳で亡くなりました。
館内のホールに入ると、崩れ落ちた城壁、堤防が復元され、天井には当時の南京に地図がひろがります。たくさん灯もる赤い点が、集団虐殺遺跡の地点です。集団虐殺の場所は揚子江のほとりに集中し、おびただしい遺体が投げ入れられ、川の水が赤く染まったと言います。
笑いながら首を切ろうとする日本兵、性暴力を受けた後、無理やり裸にされて写真を撮らされた女性たちの表情…、写真の一枚いちまいに胸がえぐられます。
涙があふれたのは、子どもを悲しそうに抱いた女性の姿。日本軍の砲弾から守るため子どもを橋の下に隠しましたが、その子は亡くなっていたのです。
家族7人を虐殺された夏淑琴(かしょくきん)さんの証言にもとづいた家のようすも再現されていました。当時7歳の夏さんは、母親と2人の姉を日本兵が暴行するのを目の当たりにして、どんなにおそろしかったことか。そしてその後、どんな苦しみを背負って人生を生きてきたことでしょう。
展示コーナーの写真3500枚、物品3000余、記録映画149点のどれもが出所を明記し、陸海空から南京に攻め入り6週間に渡る日本軍の虐殺のすさまじさを伝えています。
日本では、一部の保守勢力から南京虐殺、日本軍「慰安婦」制度はなかったとの主張が繰り返されますが、この生なましい虐殺の事実を消し去ることはできません。

南京大虐殺とは?

1937年12月13日、日本軍は南京に侵入、占領後、国際条約に違反し、武器を下ろした兵士と無抵抗の市民に、“焼く、殺す、犯す、奪う”残虐のかぎりをつくし、世界に「南京アトロシティーズ(大虐殺)」で知られる。当時・首都であった南京には当時たくさんの外国人が駐在し、事件は外交筋や報道関係者を通じてすぐに世界に知らされ、国際的な非難がまきおこった。

心身の傷ふかく

右から 張アジア処調査研究員、鄒国際部長と訪中代表団の笠井会長、平野国際部長、長谷川中央常任委員

右から 張アジア処調査研究員、鄒国際部長と訪中代表団の笠井会長、平野国際部長、長谷川中央常任委員


記念館には、南京の慰安所一覧、写真などを展示したコーナーがあります。
日本軍の「慰安所」は最初、上海につくられましたが、1937年、南京侵略のなかで強かんがくり返されたことから、軍によって組織的に設置されていきました。
この日、スケジュールの合間をぬって懇談に応じてくれた朱成山(しゅせいざん)館長は、「南京に慰安所が設置されたのは虐殺の最中で、1938年1月、市の中心部に2カ所ありました。1945年の日本の敗戦まで数カ所あり、今も跡地が残っています」と説明しました。
「南京の元慰安婦で名乗りでた一人が楊明貞(ようめいちん)さんです。彼女は7歳の時、目の前で父親が首を切られ殺され、母親と一緒に切りつけられながら性暴力を受けました。現在、養老院で暮らしていますが、病気で苦しんでいます。精神的にも大きな打撃を受け、今でも大きな声で叫んだりします。生存者支援の基金をつくり、主に医療支援にあてていますが、日本政府は、被害者に賠償も支援もしていません」と語りました。

急がれる法的解決

折りしも私たちの訪中の前日(13日)、北京では日中韓の3カ国協議が行われていました。日韓首脳会談で、李明博(いみょんばく)大統領は、野田首相に日本軍「慰安婦」問題の解決をあらためて求めました。野田政権は「(1965年の日韓請求権協定で)解決済み」と拒否したまま。しかし、協定を結んだ当時、「慰安婦」問題は明らかになっておらず、対象外でした。昨年8月、韓国最高裁は、“韓国政府が『慰安婦』問題の解決を怠っているのは憲法違反”との決定を下し、大きな外交問題になっています。
そんな中、日本では名古屋市長が「南京虐殺はなかった」と発言し、政府がソウルやアメリカ・ニュージャージー州の「慰安婦」碑の撤去を求めるなどして国際社会のひんしゅくをかっています。

日本の女性たちへ期待

紅蘇省婦女連と交流し、同児童センター、芸術幼稚園を見学

紅蘇省婦女連と交流し、同児童センター、芸術幼稚園を見学


朱館長は、「あなたたちの会や日本の女性たちが、平和を守る活動や『慰安婦』問題に真剣に立ち向かっていることを知っています」と述べ、懇談は1時間半にも及びました。
館長は、「加害国日本に対しても、軍国主義者と兵士・人民を区別しています。未来・平和のために歴史を展示しており、記念館を見終わった後、特に若い世代が希望を持てるよう工夫をしています」と記念館の理念を語りました。
笠井会長は、「今年は日中国交回復40年。この間、人や文化、経済の交流がすすみ、日本の調査でも、日中関係は、軍事ではなく外交でと望んでいる人が8割になるなど、人々の意識は変化しています。侵略戦争の事実に向き合い、日本を平和の発信地にし、アジアの平和のためにともに力を合わせたい」と述べ、新婦人のパンフ「日本軍『慰安婦』問題解決のために」を贈りました。

未来のために

最後のコーナーには、大きく「前事不忘 后事之師(前事を忘れざるは後事の師なり)」の文字が。そばには、李秀英さんが80歳の時、上海の中学校で講演した「歴史をしっかり覚えよう。しかし恨みを覚えてはならない」との言葉が展示されていました。被害者から託された言葉を重く受け止めました。日本の若い人たちと、南京の地を訪れたい、そして、「慰安婦」問題の法的解決を一日も早くと心に誓いました。

(詳細は「月刊女性&運動」2012年8月号)

 
 

一覧へ戻る